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歴史 

01.はじめに
02.夏から殷
 干支と暦
 元
 八卦
 黄帝内経
03.周
 周易の完成
 易から堪輿風水へ
 瑜伽(ヨガ)伝来
04.漢
 五行と季節
 占星術(星相)伝来
 易の発展(京房)
 仏教伝来
05.晋
 葬経
06.唐
 奇門遁甲
 七政四餘
 楊均松
 李虚中
07.宋
 徐子平と陳希夷
 邵康節と皇極経世
 煙波釣叟歌
 玄空秘旨と挨星法
08.明
 劉伯温 
 欄江網
 神峯通考・命理正宗
09.清
 三合派と三元派
 卜筮正宗と増冊卜易
 四庫全書
 三才発秘
 

01.はじめに

中国やインドの文明発祥地では、早くから天文学や地理学が発達し、天体や地理、地球上の環境が人間に与える影響について研究がなされていました。インドもそうですが、中国の文明レベルは凄まじいばかりの高いレベルにありました。研究が進むと、天体の動きから将来的に起こる出来事を予知することが行われるようになりました。
天文学は科学の一分野になりましたが、未来予測的な技術は時代が進むにつれて、半ば迷信として扱われるようになりました。

知識の集約

ところが現代においても、そう遠くない過去においても、本当にそういったものが迷信として排除されたのかと言えば、排除しきれるものではありませんでした。中国においては1950年の文化革命において、国を挙げて焚書坑儒が行われ、堪輿(風水)や運命学の書が焼き払われ、そういった技術を有する人間はことごとく投獄、ないしは社会的に物理的に抹殺されました。中国では過去においても、何度もそういった思想弾圧が行われてきました。

日本においても、少なくとも江戸時代までは、大々的に行われたことがないというだけで、一部の階級が知識を集約し、広まらないようにするために、知識の取り締まりは随時行われていました。特に奇門遁甲のような当時の軍事にかかわるような技術体系は、江戸時代までは、陰陽道(密教)を行じることを許された一定のグループに所属していなければ知ることが許されず、もしそれらの知識を得たとすれば、暗殺、死罪、あるいはそれに近い厳罰を課されたと言われています。奇門遁甲に基づいて実際に築城が行われたり、戦術に用いられていたので軍事機密が部外者に漏れたとしたら一大事でした。
迷信として抹殺されるプロセスの中では、多くの重要な資源が失われつつ、その一方では知識が特定の階級に集約されていきました。集約されるプロセスで、それらは一種の密教となり、特定の集団においてのみ流通し、広がることを禁止されたものとなりました。
清代に編纂された占術、密教思想の集大成的な文書である四庫全書の一部の文書は、現在でも中国共産党の上層幹部でなければ閲覧することが許されないと言われています。



人生を切り開く叡智

現時点の科学では解明しきれない部分があるというだけであって、歴史に目を向けると、風水や運命学は、タオイズム(道教思想)の一部として生き残ってきたとともに、それぞれの時代で評価を受けてきました。

そして風水や運命学についても、歴史的には、皮肉にも社会の上層階級であればあるほど、そういった密教的(Esoteric)な技術を囲い込んで活用していたという事実があります。

中国のタオイズムを中心に、時代の変遷とともに、どのような思想が生まれ、形になってきたのかを以下に簡単にまとめました。浅学菲才のため、誤謬もないとは言えませんので、もし発見された場合には、今後修正していきたく思います。
この流れを見ていくことで、中国の占術や道教思想に一定の知識をお持ちの方であっても新しいものが見えてくることもあると思います。またそういったことに何の興味をお持ちでなかった方も、どんな国籍の方であっても、今の人生において有益な叡智に触れる機会となるかもしれません。

以下、専門用語を用いていますが、基礎理論のコーナーで出来る限り解説を施すような形式にさせていただいておりますので、併せてご覧いただければと存じます。

02.夏から商  

歴史上王朝として認識されている最古のものが夏夏(BC2205-BC1766年)と商(BC1766年‐BC1046年)において、重大な発見、発明がありました。それを以下に記します。

干支と暦
干支は、後漢に著された「月令章句」によると、BC4800年頃に大撓が天体観測を基に、日に十干を月に十二支を命名したと言われています。この干支を基に暦が夏王朝時代には使われていたと言います。実際に商の遺跡には、干支の記された動物の骨などが発掘されています。この骨に書かれた文は甲骨文と言われますが、商時代には、牛の肩甲骨に”六十干支(60干支)”の一覧表が記載されていたことが確認されています。干支は天体の観測に基づく天文学的な存在です。暦から創作されたものではなく、干支を基に暦が作られています。

中国では少なくともBC2700年頃には磁石が存在したと言われていますので、方位を正確に測定することが出来ました。「三才発秘」によれば、古代中国では、太陽の昇る位置が四季によって変わる状況を観察し、季節を太陽の位置から24に分割し(24節気)、黄道を2727宿)に分割しました。そして節気と宿に相当する太陽の昇る位置を、地支、いわゆる十二支としたのです。

24節気とは、春分の日の黄経(春分点から測定した黄道上の角度差)を0度として、そこから15度ずつ季節を表す名称を割り当てたものです。

また北極星が観測され、毎月の初昏に北斗七星の斗柄(ひしゃく型の北斗七星の柄の部分)が指す所をもって、その月の地支が決められました。(北斗七星を構成する星に2つの虚星を加えたものを九星、あるいは紫白と呼んで、これを紫微斗数や風水、奇門遁甲といったあらゆる占術に用いています。日本では九星のことを気学で用いるものとしていますが、日本と中国では九星の内容が異なります。)

そして天干は、太陽(日もしくは時間)の順序を示す記号であったことが判明しています。殷の全ての皇帝の名前には、十干が使われていました。太陽を甲の太陽、乙の太陽、丙の太陽と区別していたのです。甲の太陽は春の太陽、丙の太陽は夏の太陽、庚の太陽は秋の太陽、壬の太陽は冬の太陽と言うようにです。

古代中国では地球が球体であること、太陽に対する地球の自転周期が理解されていたとしか思えない事実が次々とわかってきています。ちなみに中国では、太陽太陰暦がBC2700年頃発明されています。そこでは、天干地支で時間を表現しています。そしてさらに踏み込んで、暦の内実を見ると、中国の太陽太陰歴の大きな特徴は、天体暦(西欧で言うEphemerisエフェメリス)の要素が組み込まれ、そこに太陽と月の関係、日蝕、月蝕、惑星の運行が反映されていたのです。

太陽の昇降から1年が決められ、歳差が出ることも織り込まれ、宿度から1月が決められ、自転周期から1日が決められたのです。


暦は元という時間の単位を基準にしていました。干支は
60種類存在し、この60が順に巡る(逆に巡る場合もある)ことから、周期を認識したのです。60をもって元とし、その元が上元、中元、下元を構成します。これが年の周期であれば、各60年です。これら60年を3元合わせると180年ですが、180年おきに、太陽系では惑星直列が起きることが観測されており、その惑星直列の周期と3元の周期は一致します。元という単位は、年、月、日、時それぞれ存在し、この単位をもって風水や奇門遁甲が作られています。

八卦
皇帝である伏羲(
BC3350-BC3040)の時代に河図が書かれたと言われます。河図(図)には八卦の概念が示されています。 八卦(先天八卦)とは太極、陰陽の概念に基づいた、自然現象を記述するために用いられた記号です。このたった8つの記号で自然界の出来事全てを表現しています。八卦の内容は、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤です。この順番は、太極が両儀(陰陽)に分化し、両儀が四象(太陽・少陰・少陽・太陰)に分化し、四象が八卦(太陽=乾離、少陰=兌震、少陽=巽艮、太陰=坎坤)に分化するという流れに基づいています。これは天道を示すと言われ、タオイズム(道教)の根幹を成す思想です。八卦が易、そして易を元に展開される風水、それからあらゆる占術、殆ど全ての占術に用いられているのです。

夏王朝の禹王(BC2070年頃)が洛書(書)を編纂したと言われます。洛書は魔法陣、九数図です。日本の気学で用いられている九星盤はこの九数図そのものなのです。これはエニアグラム(エニアはギリシャ語で9)にも使われています。この洛書に基づき後天八卦が作られました。後天八卦とは地道を表すと言われ、易に結び付いた八卦が洛書数に結び付けられ、それが方位に結び付けられ、地球上の活動を表現する記号として機能しています。

先天八卦は体を表し、後天八卦は用を表しています。体用(たいゆう)とは易の重要な基礎概念ですが、体とは主体となるもの、用とは属性や機能、主体に対して用いられるものです。先天八卦は固定、後天八卦は流動とも言えます。風水の観点で物事を観察するに当たり、主体が先天の数は何か、先天八卦の何に相当するかということを見なければなりません。そしてそれに対して後天八卦の運の巡り、状況の変化を見ていくわけです。


黄帝内経
黄帝(軒轅)と九天玄女という伝説があります。黄帝は司馬遷(BC145-没年不明)の「史記」にも記述がある皇帝で、天帝と呼ばれ、神格化されている人物です。黄帝が太陽太陰暦を創始したと言われています。また「黄帝内経」という中国最古の医学書を編纂させたと言われています。「鍼経」9巻と「素問」9巻から成る構成でしたが、その殆どが散逸し、現在残っているのは「素問」の一部と「霊枢」と呼ばれる文書のみですが、陰陽五行説に則った医学体系は、中医学(東洋医学)に大きな影響を与えています。
商の時代には調理技術が発達し、原始的な漢方薬が煎じて作られるまでになりました。

 

03.  

周易
周の時代に、現在周易として知られている易が作られました。周易の爻は八卦として伏羲の時代から既に存在しており、これに意味(卦辞)を付けたのが、周の文王(BC1152-BC1056)でした。(文王が作ったのではなく、文王が滅ぼした商にあった周易の卦辞をそのまま持ってきたという説もあります。儒家の基本書、儒教の基本思想書として五経がありますが、その筆頭に挙げられているのが「易経」です。周の時代に孔子(BC551年-BC479年)が「易経」を現在のような形に編纂したと言われています。

易とは日と月から作られた象形文字です。日は陽を月は陰を表しています。易とは太極、陰陽を表す思想なのです。易はもともと天文と結びついていました。易は象気理数という発想を一つのベースにして展開されます。象とは自然環境を観察分析し、その象を読み取るということです。象を気という形で捉え、気を理に当てはめます。そして理が出たら、数によって定めることが出来るわけです。現在の易は、筮竹やサイコロを用いて占う卜の形が一般的で、天文易と言えば六壬神課に名残を見ることが出来ます。

天文に結びついた易は、堪輿(天地という意味 風水)の基本原理となり、風水に展開されることとなりました。風水師が方位計測に用いる羅盤を見ると、風水の天体との結びつき、易との結びつき、いずれも理解されるでしょう。

瑜伽(ヨガ)伝来
周代にインドからヨガを含む医学知識が中国にもたらされ、経絡という概念が体系付けられました。外科手術についても同時期にインドから知識がもたらされ、中国で実施されるようになりました。ヨガは人間の霊性を開発するに当たり非常に優れた包括的な方法論であるため、仙道の修行に多大な影響を与えたことが想像されます。インドにおいてもヒンドゥー教のバラモン階級が開発したヨガが、原始仏教成立に大きな影響を与えたと言われています。解脱し悟りを開くという宗教者にとって不可欠なプロセスが、絵に描いた餅から現実のものとなるのは、ヨガの実践において実現されることだからです。中国においてもヨガにおいて開発されるチャクラを宮と表現し、宮を開発することの重要性や方法について認識されていました。そしてヨガの実践者である仙人が、ヒマラヤのヨーギーのような体験を数多くしていることも後に知られることとなりました。日本にはその後、中国文化の伝播に伴い、ヨガは密教として輸入されました。そのため密教書には、パタンジャリの「ヨーガスートラ」同様の記述があります。

春秋戦国・秦
秦の時代になると、始皇帝が焚書坑儒(BC213-BC191 )を行いました。これは思想弾圧で、挟書律という書物の所持を禁ずる法律を施行し、特に儒教関連の書物を厳しく取り締まり、多くの書が焼き払われ、儒教学者が虐殺されました。
春秋時代には、現在知られている最古の地理書籍「山海経」が作られました。これは風水に影響を与えているのみならず、医療に持ちいる食薬について詳しい記述が載っています。
また黄帝内経の「素問」「霊枢」が編纂されたのもこの時期です。

04. 

五行と季節
漢(BC206-220)の時代になると趨(すうえん)(BC305- BC240頃)が五行理論をまとめました。五行の概念自体は漢以前、相当前から存在していましたが、異説を統合し、ほぼ現在の形にまとめあげた功績があります。例えば、春を「木」に、夏を「火」に秋を「金」、冬は「水」と配し、土を各季節に割り振るという、現在の東洋系占術の基本がここで定まったのでした。それまでは季節を五行に割り当てるという発想があったとしても、統一的なルールがなかったわけです。これによって暦と五行がリンクしました。そして五行間の相生、相剋、その他の関係性が整備されたのでした。

占星術(星相)伝来
バビロニア発祥の西洋占星術(
BC2470‐2430頃)がインドを経て、中国にもたらされたのは、だいたい紀元前2世紀から1世紀の頃と言われています。この時代に六壬神課が発明されました。六壬神課は天文易とも言われますが、西洋占星術の影響を受けています。その名残は同じく占星術の影響下に作られた紫微斗数で用いられる盤(一種のホロスコープ)と類似した天地盤を使っていることや、月将の取り方が十二星座に太陽が位置する時期と重なること、あるいは四課三伝と呼ばれる太陽太陰暦と直結した干支を用いることなどに表れています。そしてもう一つの特徴は、神に対する儀式を伴うところです。日本では中国から伝来すると、陰陽道に組み込まれ、陰陽師に愛用されました。六壬神課は占術であるのみならず、方術(密教術)の側面があり、技術的にも密教信仰と不可分です


易の発展(京房)
焦延寿が「焦氏易林」を著しました。これは周易64卦×64、4096首の歌から成っている術数書(いわゆる占術書)です。ここにある歌を卜によって選び出し(当時は貨幣を投げて易を立てる)、吉凶を見るものです。これが大変に当たるので、書を手に入れた人は皆、驚愕したわけです。日本にも江戸時代に「大易通変」という名前で翻訳され、ブームを起しました。この焦氏易(漢易)を焦延寿の弟子になって学んだのが、京房(BC77-37年)でした。京房こそが、易に大きな発展をもたらした人物です。
京房が行ったのは、易の64卦を季節、時候に当てはめて社会的事象を予測する(卦気説)というものでした。京房は易だけで日蝕や氏族の反乱を予測して、皇帝の前で見事当てて見せました。京房は象数易の大家と言えます。「漢書」にも京房の書が多く含まれていますが、その後の歴史の中で焚書の対象となり、現存しているものはありません。唯一残されているのは、「京氏易伝」ですが、これは本人が実際に記述したのかどうかは定かではありません。しかしながらこの「京氏易伝」の理論的な内容を見ると、まさにこれが”当たる易である”五行易の元祖となるもので、現在においてもなお中国文化圏の易文化に多大な影響を与えています。(五行易は鬼谷子が春秋戦国時代に創始したという言い伝えがありますが、鬼谷子が実在した証拠はなく、また鬼谷子によって残された書もありません。)京房は易によって予言をし、それがあまりに的中することから元帝に可愛がられました。しかしそれが仇となり、政治的な争いに巻き込まれ、若くして処刑されてこの世を去っています。

京房の卦気説ですが、以下のような五行易の特徴を持っています。
①八卦を八宮に分け、本宮から初爻より順番に爻を陰陽反転させ、本宮の下にそれぞれ7つの卦を所属させる。
②八卦について五行の相生相剋を当てはめて吉凶を判断する。
③六親の概念がある。
④世応の概念がある。
⑤飛伏の概念がある。等

しかしながら、五行易といった形で定義されたわけではなく、現在から見ると周易と五行易の両方の要素を持ったもの(アマルガム)でした。このアマルガムが複数方向に発展していって、今の易の体系があります。日本では周易と五行易は全く別物のように扱い、五行易を狭く限定して扱う向きがありますが、五行易は周易、漢駅、その他象数易の影響を受けながら形作られたもので、五行易が異端的に独立して存在しているわけではないのです。


仏教伝来
インド仏教が中国に伝わったのはBC1世紀頃と言われます。中国にはインドからチベットを経て、北伝仏教が伝わったのですが、それが道教の影響を受け、その後の歴史の中で独自の形に解釈されていきます。

医学の発達
中国で最古の薬学専門書「神農本草経」が編纂されました。本草というのは薬効のある食品のことで、植物が主ですが、動物、鉱物に至るまで対象とされていますこの書においては365種類もの薬物について書かれています。そして張仲景が「傷寒雑病論」を著しました。これは有名な「傷寒論」と「金匱要略方論」の2つから成っています。傷寒とは急性熱性疾患の総称です。この書は中医学の臨床に多大な影響を与えました。食事療法、薬膳についても多くのページが割かれています。

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